新宗教について

自分に何かあったわけではないのだが、少し前に統一教会だとか、あとは街中で宗教施設(創価学会、幸福の科学など)の建物を観たりすることがあって、単純な興味ということで少し新宗教に関する本を読んでみた。

海外の友達に「あなたの宗教は何?」と聞かれると、模範解答のように「仏教だよ」と答えていた。まぁ、夏祭りだったりお盆の習慣は仏教由来のものだし、「無宗教」と答えてしまうことは、海外のはっきりとした信仰を持つ人からすると「やばいやつ」に見える可能性があると思ってなんとなくごまかしていた。
日本人にとって「宗教」という言葉自体そこまで古い歴史があるものではないようで、あまり意識してこなかったもののように思う。

それなのに、そんな日本人が、やれ創価学会だ、統一教会だのという新興宗教に飲み込まれてしまうことがあるのか、客観的に見れば、その宗教を信仰すれば絶対に救われるなんてことは無い、と私は個人的に思うところから、どういった理由で入信してしまうのだろうと気になって、図書館で本を探してみたわけである。

伝統宗教とされる、キリスト教、イスラム教、仏教などは基本的に、世界の終末が迫っていたり、この世の行いが死後の世界で判断されたり、死後その宗教を信仰しているものだけが神に救われれるとか、死後、またはこの世ではない世界で救われる、永遠の命を授かるといった形で、「今」ではなく「後で」救われるものが多い。そして、仏教のように「生きることは苦、修行」のように現世を否定する形のものが多い。

一方、初期の日本の新興宗教(創価学会、立正佼成会、大本、天理教)などは、「現世」に救いを求めるものが多い。信仰し、研鑽に励むことで今をよりよく生きることができる、この世で救われるといったものが多い。
特徴として、心なおし・病なおし・世なおし、を目的とするような信仰スタイルがあるよう。
確かに、病気になってしまった子供がいる母親が、救いを求めて怪しい水だとかを買ったり、一生懸命、家に飾った曼荼羅に祈るようなものは、容易に想像できる。

新宗教が、一人の人間によってパッと新しい考え方で作られたものではなく、元々は仏教や神道を基にした別の流派のようなものから少しずつ形を変えていったものらしい。創価学会は、もともと「創価教育学会」という名前で日蓮正宗の影響を受けた、新しい教育思想というものだった。なるほど、今の教育方針ではない、自分の新しい教育方針、ということになると「ほかの人に聞いてもらいたい、広めたい、そうすれば教育は、社会はもっと良くなるはず」、という気持ちから発するのも理解できるような気がする。
しかし私がやはり相容れないのが、宗教勧誘、という観点である。創価学会は座談会と呼ばれる集まりを各家庭で行ったりして、そこに集まった信者たちで、社会の問題などを話し合ったりしていたようなのだが、基本的に先輩後輩などはいつつ、意見を述べて他者にかかわりあっていくというようなスタイルも新宗教の特徴だ。
1960年代に強調された創価学会の勧誘の基本として「折伏(しゃくぶく)」相手を論破し説き伏せて、相手を信仰に引き込もうとすることを積極的に行おうという流れがあったそうなのだが、本当に迷惑な話…と私は思ってしまうのだが、これを真剣に、上記の「座談会」の中で「いかにどうやって折伏をして徳を積むか」ということを話し合っているのだという。
創価学会の歴史はよく見かける「統一教会」や「幸福の科学」「エホバの証人」などよりも日本に早い段階であった新宗教で、第二次世界大戦前後などには最盛期を迎えたが、1970年代ごろには大きく衰退したようだ。これは、戦時中に天皇を絶対視する政府が、新興宗教などを弾圧したことも影響しているが、そもそも近代になってからは、宗教活動に必要な「仲間づくり」が難しくなってきたからということもあるようだ。
創価学会のように、家庭で座談会を行う中心は主婦などが多かったよう。田舎から都市に出てきて、または結婚で別の場所に移住してきて、第2のムラのような役割になっていた新宗教が近代では難しくなったことも大きな要因だろう。

近代になって出てきた「オウム真理教」「統一教会」「幸福の科学」「エホバの証人」というのは、今までの現世救済という観点から離れ、現世に見切りをつけ、信者を世の中から隔離することで信仰度合いを強くするタイプのものが多いよう。統一教会は韓国から、エホバの証人はアメリカから、これらは日本発出の新宗教ではないのだ。
統一教会がなぜ日本に、非常に力が強いかというと、キリスト教の創成期から来ているのだと思うが、「エバ」(イブ?)が禁忌を犯し、「アダム」もそれに加わった、今の人類は罪深いのでそれを清算していく、そして「エバ」の国は日本。「アダム」の国が韓国、なので、エバである罪深い日本は、アダムである韓国に償いをしなくてはならない、みたいな思想が根源にあるらしい。なんじゃそりゃ。

細かく分かれていくといろんな「宗教」と呼べるようなものがたくさんあって、どれも何かに救いを求めたり、何か(自分自身・社会)をよくしたい、というところを根源にそれを上手く、神様を絡めたり大宇宙と呼んだりしてそれっぽくして進行しているのだろうが、やっぱりなんでそんなものを信じて進めるのかよくわからない。そして本人たちが本当に心から信じて信仰しているのかが甚だ疑問だ。
私個人のスタンスとしては、やはり困ったときに祈ることはあったとしても、それが100%叶うとは思っていないものの、そういう意識で自分が生活することによって、それに近づいていくだけ、と思う。
本の中にも、どこかの宗教で、「自分を捨て、他者を大事にしなさい」といったような言葉もあったり、当たり前だけれど大切にするべき様なことはたくさんあり、宗教の言葉や中身すべてがでたらめでおかしなことを言っているわけではないのは理解している。その中で、自分の中で「あぁ、これは確かに生きていくうえで大事な考え方だよな」と共感できるものだけ自分の糧としていきたい。そんな風に考えている。
今回、島薗進さんの「新宗教を問うー近代日本人と救いの信仰」ちくま新書を読んだ。なかなか表に出ることのない、知ることのない新宗教の中身について、歴史について知ることができてよかったと思う。面白かった。でもいろんな宗教が分派がありすぎて正直すごく混乱した。まぁそれでも「こういう人たちがいるんだな」と思うことで、より騙されることはないな、という自分に自信は持てたと思う。何を信じるも、人の自由。人は人で、尊重したいと思う。ただ、それを人に押し付けるのだけは勘弁。

ちょっと今回の題材は難しかったな・・。

思ふこと
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