今だからこそ考える自由と幸福

思ふこと

自由とは…

今回拝読したのは、
大屋雄裕氏著 「自由化、さもなくば幸福か?~二一世紀の<あり得べき社会>を問う」
2014年に出版された本ですが、まさに今のコロナ禍の社会、政治体制について論じているような気がしました。

あの福沢諭吉も民衆を心配していた

ちょうど「学問のすゝめ」を書いていたころの福沢諭吉は民衆の政治意識を憂慮していたそう。
なぜなら今までの民衆は国の「客分」であったのが、「国民」というものにいきなりなってしまうことは、
何も知識を持たず、国家が危機に陥ったときには、翻って
「私は客分だから、命捨てろと言われるなら、逃げさせてもらいます」
といったように責任持たずに逃げる人が多いだろうと予想したためだそうだ。

これはまさに今の日本の様子を見ているかのようだと思った。
全国民の意見というわけではないので、あらかじめ弁明しておきたいが、
戦後最悪のGDP率をたたき出し、首相もなかなか表に出てこないような日本政府に対して「こんな状況なら海外に出たい」というような世論をTwitter等では見かけた。

政治に必要なものとは・・・

政府が信頼を向上させるには透明性が必要条件らしい。
そう考えるとどう見ても今の日本の政治に透明性があるかというと、疑問である。
いろいろと都合の悪い文書を「うっかり」なくしてしまうことは今に始まったことではない。
言葉と行動の間にある矛盾をなくしていくしかないのだが、口で言っては簡単だが実際にするとなるとやはり難しいもの。
さらに、素晴らしい統治者を求めるのであれば、本当なら、その統治者を選ぶ個人も統治者に匹敵するくらいの能力を持っていないときちんとした人間を選ぶことは難しいのではないかと思う。だから、ひとえにリーダーが悪いと批判するのではなく、まずは国民自体の能力を上げないと、きちんとしたリーダーというのは出てこないのではないかという気がしている。
まぁ、そう考えてしまうといつになるのやら、国民が今のような状態だからそれをうまく使われているのかもしれないな、と思ったりもする。

街中に監視カメラ…これも自由のため?

様々な国で監視カメラが至る所に設置され(日本も例外ではない)日々、安全・安心と引き換えに私たちの情報も知らぬ間に盗みとられている。
私たちがよく勘違いしがちなのが、設置してある監視カメラはすべて政府のものというわけではなく、独自の利害を避けるために民間企業などが設置したものを必要時には政府等(この場合は警察になるかもしれないが)が使用できる、という部分である。この場合、難しいのはこの情報について情報をとられている側からとっている側のことは何も見えないという不平等さは問題のような気もするのだが。
例えば鉄道会社が設置した駅構内のカメラ、最近の「あおり運転」で注目を浴びるようになったドライブレコーダーもその一部にあたると言っていいだろう、そうやって監視社会を作り上げることで私たちは自分たちの心の安心を作り出すという自由を得ているのではないだろうか。
そして、監視されているために悪者から一時的にではあっても遠ざけられているというところに安心と幸福を感じることができているのではないか、ということにこの本によって気づかされた。

幸福になるためには自由が必要だ自由と言うのはつまり自己決定ができると言うことを意味する。
究極には自分が思うように、他者しかし、それはつまり他者から支配されることに苦痛を感じるので、それがかなわないなら平等にしたいと言う気持ちの表れかもしれない。
この思想の仕方は19世紀ですでに失敗とされている考え方なのだが、普遍的なものであるとも感じる。

あのユヴァル・ノア・ハラリ氏のTED TALKが興味深い

本書とは少しずれるのだが、ちょうどタイムリーに興味深い関連情報を見つけたのでぜひ見てほしい。
あの有名な『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏が2018年に講壇した、TED TALKの内容が、
やはり今コロナ禍に必要な、自由とは何か、社会がどのような方向で進むべきかという点について、
ファシズムとナショナリズムを比較してわかりやすく解説している。
字幕で日本語も出る。

ナショナリズム自分の国は特別(またはユニーク)と感じて、自分はその国に対して特別な義務を負っているという考え方で、一方ファシズムは、自分の国は最も優れていて、自国に対してのみ義務があるという考え方だそう。
このナショナリズムの例として北欧等と並んで日本が取り上げられたのが少し意外だった。
どうしても外から見られる日本と、内から見る日本というのは見方が非常に違うような、ギャップがあるような気がしてならないという気持ちにいつもなってしまう。
それはさておき、このファシズムというのは自分の国が一番優れていて、ほかの国は見向きもせずただただ、自分の国のことを最優先にして考えるやり方だという。なんとなく、大統領選挙を迎えようとしているあの国や、その国と敵対するあの国や、なんだかそんな感じの国が増えているような気がしているのは気のせいだろうか。ハラリ氏はこのようなことも予想して忠告として、この話をしていたのではないかという気持ちになる。
国がそのようになっていくと、ファシズムは悪いものだと思っていたけれど、なんだか正義のために頑張ることのような気がしてきた、と自分がよく見えてしまうらしいので注意。国がよく見えてきたら危ないのかもしれない。そう考えると、今の日本はまぁ、そういう人もいるかもしれないが、まだ大丈夫、なのかもしれない・・・どうだろう。

変化し続ける社会

話は脱線したが、
女性の正しい生き方として前提とされている専業主婦という存在も、高度経済成長期に一般化したと言う意味では約30年、1世代の寿命しか経っていない新しい考え方で、日本の文化というには至っていないと言うことや、
終身雇用も同様に第一次世界大戦期の人手不足を克服するために生み出されたものだと言われている。
私は女性全員が男性のように働くというのは、強制的でなければよいかな、ただ選択権は平等にあると良いよね、という考え方ではあるが。
個人的な意見としては、ただ家族を養うためだけにがむしゃらに働くのは嫌なので、自分のやりたいことをそれなりにできて、それなりの生活ができれば・・・と思っているが、甘いかもしれない(笑)

時代は変わり、生き方の理想や技術の水準、家族構成なども大きく変わっていることを考えると、
もはや今生きている私たちが自然と思っているものは変わってきてもいいのかもしれないと感じるのではないか。

思ふこと
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